世の中には、難しいことを難しいまましか説明できない人と、難しいことを簡単に説明できる人がいると思います。今日は、そんな感じのお話。
 えぇ〜、最近ですね、近代思想というものに、ちょっとはまってます。と言っても、一人の作家さんがおもしろいなって思うくらいですけどね。その人は、内田樹(うちだたつる)先生といって、神戸女学院大学で教授をしてる人です。
 最近、先生の著作を2本読みました。どちらも難しいテーマを扱っていながら、非常にわかりやすく、読み応えがありました。最近読んでた方は、思想色が強く、若干難しかったですが、他の思想書に比べれば、格段に読みやすかったと思います。
 で、思ったんですよ。難しいことを難しくしか説明できない人ってのは、実はよくわかってないんじゃないかって思うんですよ。もしくは、難しい言葉を使ってる自分に酔ってるか、どっちかだと思います。もし、人にわかってもらおうとするならば、平易な言葉を用いた方がいいに決まってるじゃないですか。それをしないってことは、そこに何らかの意図が介在するんだと思います。
 わかりやすく説明できる人ってのは、本質がわかってるから、単純に説明できるのでは無いでしょうか?もし多くの人にわかってもらいたいのであれば、その人の考えてる一番大事なエッセンスだけを伝えればいいんだと思います。それがわかってないから、多くの言葉が必要だったり、難しい言葉が必要になってくるのだと思います。
 そうは言っても、人間ってのは言葉を使ってコミュニケーションをするわけで、そこには自ずと限界があるわけです。例えば、「幸せ」って言葉の意味はって聞かれたら、「幸福」といわれます。じゃあ、「幸福」の意味はって言われたら、「幸せ」って応えます。これじゃあ、何の解決にもなりませんよね。でも、わかりやすくいうと、世の中はこんな風に出来てるんですよ。
 要するに、言葉というものを規定するのもまた言葉なのだから、それを説明する言葉は延々と続くわけですよ。どこかで、納得してると自分が思い込むことによって、コミュニケーションってのが成立するわけです。言葉の意味を正確に理解しようとした場合、言葉本来の意味を調べるよりも、その言葉が使われた文脈から推測するということのほうが圧倒的に多いと思われます。それは、子供の頃から言語を習得してきたやり方が、そのやり方だったからだと思われます。
 言葉ってのは、限界があります。でも、その言葉を使ってしかコミュニケーションは出来ないんですよ。だったら、その言葉ってツールを上手く使いこなすことが出来れば、より明確に自分の意思を伝えることが出来るようになると思いませんか?コミュニケーションは、半分は技術です。感情というモーターがあっても、タイヤが上手く回らなかったら、前に進みませんよね。そういうことだと思います。
 自分で書いていて、結構まとまりの無いことを書いてるなと感じますが、まあ、それはおいておきましょう。わかりやすく伝えることが出来る人間になりたいなってことで、今日はお終い。書いてて思ったが、やっぱり物書きの人たちはすげぇ〜わ。
 今日も色々と思うところがあり、日記というものを書いてます。物事ってのは、一つの方向からしか見ないと、本当の姿ってのは見えないんですね。事実は一つだけど、その切り口が違えば、全く違う印象を与えるんですね。
 そう思ったのは、今回「青色発光ダイオード」の中村先生側の立場の本を読んだからです。今までは金の亡者とばっかり思ってました。だってさ、すっごいお金をもらってるのに不満をたれてるような印象だったんだもん。
 何が問題かって、その印象をメディアが伝えてるってこと。中村先生の思ったことが、俺達に伝わって無いってこと。今回その本を読んで感じたことは、中村先生ってのは私欲に走ってこの裁判をしたんじゃないってこと。
 彼の発言にあるのは、これから続く技術者のためってのが一番大きかったです。自分がその道を切り拓くって意思を感じました。技術者が育つための土壌ってのは、今の日本に無い気がします。いくら頑張っても、その利益は会社が吸い上げるし、技術者が夢を見ることが出来ないってのが問題なんでしょうね。
 この場合の夢ってのは、モチベーションって意味合いでもありますね。モチベーションが上がる仕組みを作るってのは、どんな分野においても必要だと思います。
 みんなが自分がやりたいことをやれるような気持ち作りが出来るような仕事につきたいなって思いました。それは、分野が絞られるかもしれないし、教師みたいに幅広い分野かもしれません。まだわかりませんが、それが俺の幹にしていきたいなって思います。
 将軍サンは、現在養成所という機関に通っています。そこには、クラスというものが存在するわけで。もう8ヶ月以上顔をつき合わせてるクラスメートがいるわけですよ。
 にもかかわらず、俺は嫌いな人がいます。たぶん、向こうも俺のこと嫌いだと思います。お互い嫌いなんで、オッケーってことにしましょう。でも、このままだと何の生産性も無いので、嫌いな理由を考えて見たいと思います。
 この嫌いな理由ってのは、おそらく相手の中に自分の嫌な一面を見てるからだと思います。それを考えることは、自分にとっても成長につながると思います。ちょっと辛い作業になりますが、今日はそれをやってみましょう。
 まず、その嫌いな人とは、一緒にいたくありません。一緒にいると刺されるような感覚になります。出してるオーラがまがまがしいと言うか、人を恐怖させるに足る力を持ってます。
 何ていうか、強制力があるんですよ。一見温和な雰囲気があるものの、腹の底には絶対に自分が正しいんだっていう感じがするんですよね。何ていうか、偽善者とでもいいましょうか。
 あとね、何と言うか子供なんですよね。俺が言うのもなんだけど、周りに気を遣ってるようなフリをするのが上手いんですよ。そんで、権力に取り入って、それをかざして自分達の正義を主張する。
 書けば書くほどサイテーな像が出てきますね。それが、俺の中にあるものなんだと思うと、結構イヤになります。そこで、ここから先はもう一歩踏み込んで、その解決策まで考えていきましょう。
 まず、このまがまがしいオーラについてですが、これは相手に対する威圧感だと思います。しかし、偽りの温和な雰囲気をまとったところで、相手に見抜かれてしまうんですよ。だから、心の底から温和な雰囲気を出さなきゃいけないんですね。謙虚な気持ちを持つことこそ、その解決策だと思います。
 次に、自分の実力を知ることが大事。知ることが出来れば、デカイ顔しなくなると思います。「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」、この言葉の意味を実践する。おぉ〜、段々わかってきたぞ。嫌いな理由が、その不遜な態度から来てるということが。
 だとすれば、相手にしないってのが一番かもね。深く関わらず適当な距離をとりつつ、相手に迎合しておけばいいのかも。しかしこれだと、何の根本的な解決にもならないですね。
 仕方が無いので、少しずつ自分をだしていきましょう。しかし、謙虚な気持ちは忘れないように。大人になるための試練だと思って、頑張りましょう。